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足柄は妙高級巡洋艦の3番艦として大正14年(1925年)4月に起工されましたが、完成は同クラスの中では最も遅く昭和4年(1929年)8月となっています。 その主な理由としては昭和初期の財界恐慌から神戸川崎造船所が一時的に経営困難になったことがあげられます。 こうして完成した足柄は第2艦隊第4戦隊に編入され戦隊旗艦として活躍しています。昭和8年(1933年)11月より足柄は第1次近代化改装工事を逐次受け、最終的に完了したのは昭和11年(1936年)3月と言われています。 この後、昭和12年(1937年)5月におこなわれたイギリス国王ジョージ六世の戴冠式及び記念観艦式に参列のためイギリスに遠征した足柄は帰途ドイツのキール軍港に寄るなどの外交任務をこなしました。 この訪問航海は日本の重巡洋艦が世界に冠たる性能を誇っていることを世界の軍事関係者に強く印象づけたのですが、ヨーロッパ諸国(多分イギリス)の反応の中に「飢えた狼のよう」という形容があり、これを日本人は讃辞と解釈したようですが、どうもそうではなかったと現在では推測されています。 また、この時ドイツやイギリスで多くの写真が撮られ鮮明な写真が今でも残されているのは、不鮮明な写真しかない他の艦に比べて足柄にとって幸運だったと思われます。 帰国した足柄は折からの日中戦争の支援のために昭和12年(1937年)から昭和14年(1939年)まで黄海、南支那海などに展開しますが、特に戦闘行動はなく、輸送、護衛任務に就いています。 昭和14年より約1年を費やして足柄は第2次近代化改装工事を受け、砲撃力、雷撃力などを大幅にアップさせ、近代重巡洋艦として太平洋戦争を迎えることになります。開戦時妙高クラスは妙高、那智、羽黒が第2艦隊の本隊をなし、足柄のみ第3艦隊第16戦隊に分派されており、フィリピン西方をパトロールしたり台湾よりの陸軍兵を満載した輸送船団の護衛をしていました。米アジア艦隊に重巡ヒューストンが配されていたための措置でした。 フィリピン攻略後は蘭印(現インドネシア)作戦を支援し、ジャワ攻略作戦にも加わっています。そして、足柄は損傷を修理し再進出してきた妙高とともに昭和17年(1942年)のスラバヤ沖海戦の後半戦(3月1日)に参加。2月27日の前半戦でデ・ロイテル、とジャワを撃沈した日本艦隊は一旦スラバヤに避退してセイロンに脱出を試みる英巡エクゼターを南より那智、羽黒の第2艦隊が、北から妙高、足柄が挟み撃ちするような形で砲戦を開始しエクゼターを駆逐艦ポープ、エンカウンターと共に撃沈する殊勲をあげています。 この後昭和17年(1942年)3月、第2南遣艦隊の旗艦となった足柄はスラバヤを基地にインドネシア方面に睨みをきかせていたのですが、他の艦艇をよそ目に陸軍兵の輸送や護衛任務こなすのみで大きな戦闘に参加する機会もなく時が過ぎてゆきました。 昭和19年(1944年)7月、那智と北方艦隊である第5艦隊、第21戦隊に編入されるも北太平洋へ展開することもなく呉で待機。 昭和19年(1944年)10月の台湾沖航空戦で米空母に多大の損害を与えたとの情報から残敵掃討と勇躍出撃したものの誤報と判り戻っています。 この直後のレイテ沖海戦に別働隊として志摩中将に率いられて出陣するも栗田、西村両艦隊との共同歩調がとれず、西村艦隊がスリガオ海峡で壊滅した後にスリガオ海峡に突入したのです。 待ちかまえるのは戦艦を基幹とする米第7艦隊。西村艦隊を撃破した強力な艦隊相手ではどうにも勝ち目はなく、無念の思いで撤退したのです。 結局栗田艦隊のレイテ突入は「謎」のみを残して反転する結果となり、残存の栗田艦隊はブルネイに引き上げさらに本土へ廻航され、残った妙高、羽黒はシンガポールへ、足柄はベトナムのカムラン湾へ行くことになります。 そして、南西方面艦隊司令部よりミンドロ島砲撃が下令され、軽巡大淀と6隻の駆逐艦とともに木村少将の指揮下、昭和19年(1944年)12月24日カムラン湾を出撃、途中敵の航空攻撃を排除しつつ26日夜間サンホセへ突入、砲撃、雷撃をおこない、敵輸送船多数に撃沈を含む多大の損害を与え、さらに飛行場、物資集積所にも砲撃を加えて炎上させるなど多くの損害を与えて久しぶりの大戦果を揚げたのです。 この快挙は日本海軍将兵の意気を大いに高めたのでした。 この後、残存の艦隊は自給自足を強いられジャワ方面の陸軍兵や艦船も含めシンガポールに後退することとなり、足柄は駆逐艦神風の護衛を受けバタビアにいた第48師団の陸軍兵を乗せてシンガポールを目指したのです。 そして昭和20年(1945年)6月8日、スマトラ島東、バンカ海峡において英潜水艦トレンチャントの雷撃を受け、魚雷5本が次々と命中、被雷30分後に横転、沈没。その生涯を閉じたのです。 (要 目)開戦時 基準排水量:13,000トン 水線長:201.70m 最大幅:20.8m  主 缶:ロ式艦本式重油専焼缶 12基 速 力:33.9ノット 航続力:14ノット 7,500海里  兵 装:20.3cm連装砲×5基 12.7mm 連装高角砲×4基 25mm連装機銃×4基 13mm連装機銃×2基 4連装発射管×4基
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ホーム | ハセガワ > 1/700 艦船(WL)ハセガワ 1/700 WL336 日本海軍 重巡洋艦 足柄
商品詳細

ハセガワ 1/700 WL336 日本海軍 重巡洋艦 足柄

販売価格: 1,935円(税込)
[在庫なし]
希望小売価格: 2,310円
足柄は妙高級巡洋艦の3番艦として大正14年(1925年)4月に起工されましたが、完成は同クラスの中では最も遅く昭和4年(1929年)8月となっています。
その主な理由としては昭和初期の財界恐慌から神戸川崎造船所が一時的に経営困難になったことがあげられます。

こうして完成した足柄は第2艦隊第4戦隊に編入され戦隊旗艦として活躍しています。昭和8年(1933年)11月より足柄は第1次近代化改装工事を逐次受け、最終的に完了したのは昭和11年(1936年)3月と言われています。

この後、昭和12年(1937年)5月におこなわれたイギリス国王ジョージ六世の戴冠式及び記念観艦式に参列のためイギリスに遠征した足柄は帰途ドイツのキール軍港に寄るなどの外交任務をこなしました。
この訪問航海は日本の重巡洋艦が世界に冠たる性能を誇っていることを世界の軍事関係者に強く印象づけたのですが、ヨーロッパ諸国(多分イギリス)の反応の中に「飢えた狼のよう」という形容があり、これを日本人は讃辞と解釈したようですが、どうもそうではなかったと現在では推測されています。

また、この時ドイツやイギリスで多くの写真が撮られ鮮明な写真が今でも残されているのは、不鮮明な写真しかない他の艦に比べて足柄にとって幸運だったと思われます。

帰国した足柄は折からの日中戦争の支援のために昭和12年(1937年)から昭和14年(1939年)まで黄海、南支那海などに展開しますが、特に戦闘行動はなく、輸送、護衛任務に就いています。
昭和14年より約1年を費やして足柄は第2次近代化改装工事を受け、砲撃力、雷撃力などを大幅にアップさせ、近代重巡洋艦として太平洋戦争を迎えることになります。開戦時妙高クラスは妙高、那智、羽黒が第2艦隊の本隊をなし、足柄のみ第3艦隊第16戦隊に分派されており、フィリピン西方をパトロールしたり台湾よりの陸軍兵を満載した輸送船団の護衛をしていました。米アジア艦隊に重巡ヒューストンが配されていたための措置でした。

フィリピン攻略後は蘭印(現インドネシア)作戦を支援し、ジャワ攻略作戦にも加わっています。そして、足柄は損傷を修理し再進出してきた妙高とともに昭和17年(1942年)のスラバヤ沖海戦の後半戦(3月1日)に参加。2月27日の前半戦でデ・ロイテル、とジャワを撃沈した日本艦隊は一旦スラバヤに避退してセイロンに脱出を試みる英巡エクゼターを南より那智、羽黒の第2艦隊が、北から妙高、足柄が挟み撃ちするような形で砲戦を開始しエクゼターを駆逐艦ポープ、エンカウンターと共に撃沈する殊勲をあげています。

この後昭和17年(1942年)3月、第2南遣艦隊の旗艦となった足柄はスラバヤを基地にインドネシア方面に睨みをきかせていたのですが、他の艦艇をよそ目に陸軍兵の輸送や護衛任務こなすのみで大きな戦闘に参加する機会もなく時が過ぎてゆきました。

昭和19年(1944年)7月、那智と北方艦隊である第5艦隊、第21戦隊に編入されるも北太平洋へ展開することもなく呉で待機。

昭和19年(1944年)10月の台湾沖航空戦で米空母に多大の損害を与えたとの情報から残敵掃討と勇躍出撃したものの誤報と判り戻っています。

この直後のレイテ沖海戦に別働隊として志摩中将に率いられて出陣するも栗田、西村両艦隊との共同歩調がとれず、西村艦隊がスリガオ海峡で壊滅した後にスリガオ海峡に突入したのです。
待ちかまえるのは戦艦を基幹とする米第7艦隊。西村艦隊を撃破した強力な艦隊相手ではどうにも勝ち目はなく、無念の思いで撤退したのです。
結局栗田艦隊のレイテ突入は「謎」のみを残して反転する結果となり、残存の栗田艦隊はブルネイに引き上げさらに本土へ廻航され、残った妙高、羽黒はシンガポールへ、足柄はベトナムのカムラン湾へ行くことになります。

そして、南西方面艦隊司令部よりミンドロ島砲撃が下令され、軽巡大淀と6隻の駆逐艦とともに木村少将の指揮下、昭和19年(1944年)12月24日カムラン湾を出撃、途中敵の航空攻撃を排除しつつ26日夜間サンホセへ突入、砲撃、雷撃をおこない、敵輸送船多数に撃沈を含む多大の損害を与え、さらに飛行場、物資集積所にも砲撃を加えて炎上させるなど多くの損害を与えて久しぶりの大戦果を揚げたのです。
この快挙は日本海軍将兵の意気を大いに高めたのでした。

この後、残存の艦隊は自給自足を強いられジャワ方面の陸軍兵や艦船も含めシンガポールに後退することとなり、足柄は駆逐艦神風の護衛を受けバタビアにいた第48師団の陸軍兵を乗せてシンガポールを目指したのです。
そして昭和20年(1945年)6月8日、スマトラ島東、バンカ海峡において英潜水艦トレンチャントの雷撃を受け、魚雷5本が次々と命中、被雷30分後に横転、沈没。その生涯を閉じたのです。

(要 目)開戦時
基準排水量:13,000トン
水線長:201.70m
最大幅:20.8m 
主 缶:ロ式艦本式重油専焼缶 12基
速 力:33.9ノット
航続力:14ノット 7,500海里 
兵 装:20.3cm連装砲×5基 12.7mm 連装高角砲×4基 25mm連装機銃×4基 13mm連装機銃×2基 4連装発射管×4基

ハセガワ 1/700 WL336 日本海軍 重巡洋艦 足柄

販売価格: 1,935円(税込)
[在庫なし]
希望小売価格: 2,310円

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